有峰なぜ?なに?博物館

目次に戻る <前の項目>宇連往来<次の項目>

<関連項目> 宇連村 有峰トランプ 

うれおうらい

昔の有峰への主要な道。途中、水須に口留番所があり、東笠山を通る。昔の道形が残っている。

うれ往来は、有峰から越中側に出る本道として、大正初年まで利用された。有峰から祐延、東笠山、水須村を通って上滝村に出る8里(約31.4km)の道程で、標高差は約1500mある。この道は、藩政当初から飛騨への抜け道であったので、途中の水須に口番所(藩の関所)を設け、厳重に取り締まっていた。「うれ」とは有峰の古称「宇連(うれ)」からきている(「宇連村」参照)。大正13年、小口川の電源工事により祐延ダムが建設されたことで、東へ寄って小口川沿いの才覚地から河戸(現在の水須)を通るようになった。
有峰の人たちは、枇板、食器、曲げ物などを8貫(約13.7kg)ほども背負って、その日のうちに上滝で売りさばいたという。そして1泊したあと、翌日は米などの食糧や日用品を買い込んで有峰へ帰った。また、見分の役人や十村たちは、たいてい水須で1泊し有峰へと向かった。したがって水須には何軒かの宿屋があったようだ。この有峰〜水須の山道を通行できるのは秋の土用までで、その後は降雪のため閉鎖され、冬ごもりとなった。明治時代の英文学者・登山家、田部重治も一度この道を通っている。田部は著書「山と渓谷」の中で以下のように記している。

・・・「私たちは朝四時頃に出立して、私の家から三里の上滝を経て、水須村についたのは正午であった。有峰はここから八里の無人境を通らなければならない。私たちはここで暫く休んで村はずれから、有峰の方へ掘凹められたような道を進んだ。雑木を分けながら行くと、途中幾度も、兎が私たちの姿に驚いて遁げまどうのに会った。−中略− 
翌朝、そこを出て暫らく登ると、間もなく海抜五千六百尺の東笠ヶ岳の頂上に達した。ここには地蔵堂があって、初めて這松が眼につき、西南には秀麗なる西笠ヶ岳が真近に立っている。ここからは白山、立山、薬師岳、黒部五郎などが雄偉な姿を天蓋に聳立せしめ、弥陀ヶ原が長く雄大なる裾を引いているのが手に取るように見える。道は下り、下りきるところにシケノベという平らな湿地があって、小口川の源流のほとりに倒壊した小屋がある。道はそこから少し爪先上りとなり、更に下ると、渓谷らしいところがあって、それをまた登ると、最後に針葉樹の間をひた下りに下って有峰の村に到着する。」・・・
このうれ往来は高度差の大きい相当の難路だったらしく、もっとも歩きやすい道は有峰から大多和峠を越えて飛騨、跡津川へ出る道であった。峠から長棟、奥山口番所を通って福沢村、黒川谷をたどり青柳新村へ出る「上道」と、跡津川、土から神通川沿いに笹津、坂本、二松、小黒を通って青柳新村へ出る「下道」とがあったが、上道は雪解けが遅いという難点があった。そこで下道を利用しようとすると、こちらは他国領を通るというので藩の政策によって荷物を通すことを長い間禁止され、有峰村の菩提寺である大川寺の住職から身分証明書をもらって携行しなければならなかった。したがって、大多和の峠道を行きかう旅人はほとんどなく、有峰の人たちが飛騨に出向く生活路となっていたようだ。また、有峰の西谷から唐尾峠を越えて飛騨山之村へ通じる「山之村間道」があり、越中から飛騨へ塩を送った道といわれている。牛買い馬喰や薬師登山の近道となっていた。
有峰から越中へ出る道として、安政4年(1857年)、和田川沿いに亀谷村へ出る「亀谷新道」が開さくされた。しかし、翌5年2月に大地震が発生し閉鎖され、明治初期に大修理を行ったが、それでも富山側から有峰へ入る大半の人はうれ往来を通った。
(2004/9/27 柳川調べ)