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有峰村民の皆様と、双方向で交流するメールマガジン

有峰森林文化村新聞 2017年6月30日 第387号
編集/有峰森林文化村会議 編集長/青山和浩
(発行日現在の有峰村民人口:859人)
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━━目次━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
◆ねじばな便り
 ~神道に内省はあるのでは~              八十島 大輔
 ~証拠隠滅権という権利はない~             中川 正次
編集局からのお知らせ                 
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◆ねじばな便り
 ~神道に内省はあるのでは~              八十島 大輔
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 有峰森林文化村新聞 2017年6月16日 第386号のねじばな便りを拝読して
少し考えたことを書いてみようと思います。有峰村民の皆様と、双方向で交
流するメールマガジンのはずがたいてい一方通行ですもんね。

 まず、仏教、キリスト教、イスラム教などの宗教というものは、それぞれ
誰かしら創始者が居り、何かしらの教義があり、その「教え」に従って生き
ていくというものです。
 そこには偉大な何か(神様や仏様)があり、それが自分たちを守ってくれ
るような、その偉大なものに従うことこそ一番大事であり、世界はそれに従
って動いているのだ、という発想が根本にあります。だからこそ、その教え
に従っていれば安心するし、正義と悪が生まれるし、自分たちの神様を信じ
ていない人を異端だと排斥したり、その唯一の偉大な何かがない多神教の人
たちのことが信じられなかったりするのだと思います。

 富山県は浄土真宗王国だと言われることもありますが、浄土真宗など一神
教の最たるもので、阿弥陀如来に一心に帰依しなさい、そうすればたとえ極
悪人でも極楽に行くことが約束される、端的に言ってしまえばそういう宗教
です。それこそ内省しなくても何もしなくても阿弥陀如来をひたすらに信じ
て生きていれば、それだけで良いと言うものです。
 そういった考え方は簡単ですし、何か基準があればそれにさえ従っていれ
ば問題もなく、間違いというものも分かり易いです。だからこそ、そういっ
た宗教と言うものは世界中に広まりました。

 神道というのはそういった宗教と違い、創始者も居らず、教義もありませ
ん。神道の神様はご先祖様、その土地で昔から生きてきた全てのものの御霊、
今生きている周りの環境そのものです。その神様たちの「生きる道」を倣っ
て、神様たちに恥じることのないような生き方をする、それこそ自分もその
うちその神様の仲間入りをするのだから、その時に生きるものたちの手本と
なるようなそういう生き方をしようというものです。その生きる上での手本
に出来るような人であれば、今生きている普通の人であっても神様なわけで
す。
 神道の神様たちは一神教の神様のように全知全能ではありません。絶対に
守ってくれる偉大なものでもありません。世界の全てを見ているわけでもあ
りません。限界があります。また、それぞれに違った考え方も持っているか
もしれませんし、一番正しい神様が居るわけでもありません。豊かな恵みを
授けるときもあれば、時には失敗もする、荒ぶるときもある人たちです。願
いは聞いてくれるけれども、叶えてくれるわけではない、でも片時も離れず
見守ってくれて応援してくれている、そういう神様です。当然人それぞれ、
憑いている神様たちは違うわけです。
 何か基準があるわけではありません。どの神様が正しいのかも分かりませ
ん。正反対に見える神様もいることでしょう。しかし、そういう目には見え
ないけれども周りでいつも見守ってくれている人、神様たちに少しでも近づ
けるように、人の道を踏み外さないように、自らどう生きればよいのかを考
え、悩みながらも一生懸命生きていく、日々を生活していくわけです。

 人間ですからそうやって気を付けていても間違いは起こります。普段の生
活をしていれば必ず穢れが溜まっていきます。しかし、穢れを祓って清い心
にする、あるいは穢れを祓うために禊ぎをすれば、要は心の持ちようによっ
て、それからの生き方と言うのは悔い改めることができるわけです。神様の
道に照らして考えて、自分はどう生きれば良いのか、常に自分を律し、日々
内省し、神様が見ておられると言う気持ちで生きていれば、必ず神様たちは
応援してくれます。それが神道の考え方だと思うのです。

 昔、有峰の集落の人たちは薬師岳を嶽の薬師と呼んで崇めていたと言う話
があります。その有峰の人たちが信じていたのは、薬師如来と言っているか
らそれが仏教だったという単純な話では無いでしょう。有峰の厳しい自然の
中、豊かな恵みをもたらすこともあれば、自分たちを死に追いやりもする自
然そのものを崇め、その一番分かり易いものとして、薬師岳の姿の中に神様
の姿を見出し、生活していたのではないでしょうか。
 時代は神仏習合の時代です。その薬師如来は仏でもあり、神でもあり、自
分達のご先祖様でもあり、この有峰そのものだったのではないでしょうか。
それを分かり易く教えてくれたのが大川寺の御住職だったというだけで、考
え方としては神道に近いのかもしれません。そもそも今も行われている薬師
岳夏山開き安全祈願祭も祝詞がお経に変わっているだけなのではないのかと
も思ってしまうわけです。

 世界と言うのは、何か大きな一つのものではなく、それぞれの小さなもの
たちの集合体です。何か大きなものにすがるだけで、世の中には唯一の正解
があると思っているような、全世界に通用する統一したものがあると考える
ような人には、少し難しいのが神道なのではないでしょうか。一神教的な宗
教を模して作り上げられた国家神道は、神道のごく一部の神様たちを国に都
合の良いように祀り上げたに過ぎません。神社だけに神様が居るわけないじ
ゃないですか。
 現代日本で言われている、今だけ・自分だけ・金だけ、というのは、自己
を省みることなく、何か偉大な神様にさえ、その教えにさえ、従っていれば
それで良いという、そういう風潮な気もします。最近の法令順守、コンプラ
イアンス尊重、と言うもの同じような風潮の中のことである気もします。世
の中、法律さえ守れば良いというものではありません。人の道とは何か、自
分が生きているこの風土とはなんなのか、皆が考えてみることも大事だと思
います。
 身の周りに神様たちが居ることをすっかり忘れてしまった可哀想な現代の
人たちは、有峰の森の中で、自分は何故この世に生まれて今まで生きてこれ
たのかを考えてみてはいかがでしょう。有峰の神々と語り合うことで、嶽の
薬師が穢れを祓ってくれるかもしれません。
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ねじばな便り
 ~証拠隠滅権という権利はない~             中川 正次

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 昭和20年8月、広島・長崎の原爆、ソ連参戦と続き、日本に勝ち目は完全に
なくなった。前月26日に出されたポツダム宣言を受託するかどうかで、軍と
政府はもめにもめた。クーデターが起こる寸前までいった。国体が護持され
るかどうかが心配だったからである。つまり、天皇制を続けられるかという
心配である。ポツダム宣言受諾の決定後、政府と軍は書類を一斉に燃やし始
めた。国体を護持するうえで、都合の悪い書類を隠すためである。

 我々には、黙秘権がある。自己にとって不利益かどうかを問わずに、刑事
事件の捜査段階ないし取調べにおいて「自己の意思に反して供述をする」こ
とを強要されず(刑事訴訟法第198条第2項)、また、自己にとって不利益か
どうかを問わずに、刑事訴訟において、「終始沈黙し、又は個々の質問に対
し陳述を拒むことができる」権利(刑事訴訟法第291条第3項,同第311条1項)
である。

 私は、個人に黙秘権があるのだから、証拠隠滅権もあるかも知れないなと
思っていた。白い紙に、3行×3列のマス目の表を作った。2行目1列目に、
黙秘権。3行目1列目に証拠隠滅権。1行目2列目に、個人。1行目3列目に、国
家と書いて、残るマス目に○×を書いてみた。当然、2行目2列目は○である。
個人に、黙秘権が認められるのなら、国家にも黙秘権が認められるのかどう
なのか。個人に、黙秘権が認められるのなら、個人に証拠隠滅権は認められ
るのか。そして、国家に証拠隠滅権は認められるのか。

 法律に詳しい友人に、表を見せて、聞いてみた。「アホか」と、一蹴され
た。そもそも証拠隠滅権といった権利は世の中に存在しないのである。それ
はそうであろう。証拠隠滅権を認め始めたら、世間に正義は存在しなくなる。
黙っていることは許されるが、証拠を隠す権利はないのである。

 律令期以降の神道は、穢れをなくすことを基本においてきた。逆に言えば、
簡単に穢れをなくせるという考え方を日本人に植え付けてきたのだ。つまり、
水に流す。明治以降の国家神道は、その上に、天皇第一主義を載せたもので
ある。

 政府と軍で、書類を燃やすことに抵抗した人はほとんどいない。敬愛して
やまない鈴木貫太郎総理大臣も米内光政海軍大臣もである。富山県東礪波郡
庄下村(しょうげむら)の兵事係が徴兵関係の書類を自宅に持ち帰り大事に
保管したのがごく稀な例であって、ほとんどの都道府県・市町村は、書類を
焼却した。

 政府や軍の命令があったとはいえ、書類をなくすことが天皇を守るために
大事だと、国民のほとんどが思っていたからそうなったのだ。

 しかしながら、そもそも証拠隠滅権という権利は存在しないのであって、
証拠隠滅をしたら、他人からの批判に対して、「私は正しいことをしていた
のだ」と主張する権利はなくなってしまうか、ぐんと小さくなってしまうの
だ。それは国家も同じことである。証拠隠滅は、文明に対する冒涜である。

 憲法を改正しようとする中核に位置するのは、日本会議である。日本会議
を支える団体に、神社本庁がある。日本の神社のほとんどが属している。
100円玉をお賽銭したら、何銭かは憲法を改正しようという運動に流れると
考えるべきである。それが、在所のお宮さんであってもである。日本会議と
は、先の戦争は侵略戦争であったとは認めようとしない団体である。神社は、
穢れは簡単にお祓いできると考えていることが、日本会議が侵略戦争であっ
たと認めないことにつながるのだと思う。その一点をもって、私はやりきれ
ない気持ちになる。そして、侵略戦争だったことを認めないから、美しい日
本だったということになる。

 1921年生まれで選挙権はあったにせよ兵士として中国に行っていた父に、
戦争責任を求めるのは酷である。そもそも選挙で選ばれた議員が構成する国
会が、戦争するかどうかに干渉することは、統帥権干犯といって、許されな
いことだった。下級兵士にとって、上官の命令は天皇の命令であった。戦争
が終わって、天皇に戦争責任がないと言い始めたとき、一体、戦争を始めた
責任は、どなたさんにあったんでしょうということになった。それはさてお
き、1956年生まれの私に、狭義の戦争責任はない。

 しかし、2017年の日本に住んで選挙権を持っている我々に、戦争責任は全
くないとはいえないと思う。つまり、自分がその時生きていたらどう行動し
ていただろうかと常に考えていることが、「おまえたち日本人の戦争責任は
どうなったか」と問われたときに抗弁できる態度だと思う。

 丸谷才一の小説に、「笹まくら」がある。徴兵忌避した男の話である。私
は、毎日、ふとしたときに、もし自分が主人公(浜田庄吉)の立場だったら
どうしただろうかと考えてしまう。

 律令期以降の神道に沿って、穢れは簡単にお祓いできるという便利な思考
に立つ限り、いやなことは水に流すことができる。すると、昭和20年の証拠
隠滅は、それほど悪いことにも思えなくなる。また、戦前、自分が生きてい
たらと考えることもしなくなってしまう。

 そう考えてくると、律令期以降の神道とは決別した生き方をしないとだめ
だと、私は考える。たとえ、そのために罰があたったとしてもである。福翁
自伝に、「稲荷様の神体を見る」という一節がある。この話を思い返すたび
に、福澤諭吉は立派な人だなあと思う。

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◆編集局からのお知らせ                 有峰森林文化村
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◇次号の有峰森林文化村新聞は、7月14日に発行予定です。

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 あて先   E-メール:info@arimine.net

                     有峰森林文化村助役(編集長)


 今年も1ヶ月過ぎました
 6月3日の「山開き歓喜の集い」から「春の恵みの集い」、「高校生学びの
森」、「日帰り語り部講」と5つの行事に、沢山の方々に参加いただきまし
て、誠にありがとうございます。雨の中での森の散策でも、「有峰に来て良
かった」と言ってくださる声を耳にすると、とっても満足するあおさんです。
この後も17の行事を計画しております。もっともっと満足させて下さ~い。
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