********************************************************************
ありみネット http://www.arimine.net/

有峰村民の皆様と、ほぼ2週間に一度、双方向で交流するメールマガジン
有峰森林文化村新聞 2012年4月6日 第255号
編集/有峰森林文化村会議 編集長/田上十志郎
(発行日現在の有峰村民人口:738人)
********************************************************************
━━目次━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
◆有峰村民によるリレーエッセイ第37回
 〜懐かしき炭焼きと将来〜                                源田 義一
◆ねじばな便り
 〜人事を尽くして天命を待つでないと〜                    中川 正次
◆有峰森林文化村からお知らせ     ;                    有峰森林文化村
◆編集局からのお願い                                  有峰森林文化村
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
──────────────────────────────────
◆有峰村民によるリレーエッセイ第37回
 〜懐かしき炭焼きと将来〜                                源田 義一
──────────────────────────────────
 木炭は昭和35〜36年頃迄は工業や家庭に於いて重要な熱資源原料であ
った。 小さい頃は囲炉裏があり、コンロやしちりんがあり、炭や薪木を熱
源とする生活が当たり前で、暖をとるとなると炭火コタツ、火鉢が中心的存
在であったものだ。殆どの家には“かまど”が有り、“七厘(しちりん)”
があり、“豆炭”があり、そして柴(しば)や杉の葉を焚きつけに使い、私達
の生活の中での火力が源として、家中では重要な存在を占めていたものであ
る。 どこの家にも“かまど”があり、薪は炭と共に重要な燃料で木炭で火
を起し、魚を焼いたり、汁を作ったり食事全般を家庭の主婦は作っていた。

 お寺で説教や報恩講があったり、部落の寄り合い(集会の事)が在ったり
する時は、その暖房は全て木炭が主役であった時代である。又、一方では木
炭を改良した練炭や豆炭になど、炭よりも一歩進んだ火力源が出現しつつあ
ったのは、この時代で交錯する昭和35〜40年頃、更にこれらの火力源が
更に一歩進んだプロパンガスが世の中に出て来たのも、神武景気(昭和35
〜37年頃)以降であった。

 火力源がこの様に急速に移り変わって行く中でも昭和40年頃迄、山奥か
ら運び出されて来る木炭を満載した大型トラックをしばしば見掛けたもので
ある。
 昭和30年頃は大型トラックの積荷の殆んどが木炭か材木で、今の様にアス
ファルトでも無く曲りくねった細い山道を行ききしていた光景が目に浮ぶ。
 因みに木炭の国内総生産量は1995年が3万1133トン、最盛期の昭和32年は2
20万トンであった(調査資料より)石炭と共に工業生産の総エネルギー源とし
て大切な素原料であった。

 小生が住んで居た山合い部落は庄川扇状地の扇の“かなめ”より少し山手
に入った部落だったが、やはり部落の中には炭焼きを家業とする人が何人も
いた。庄川奥の利賀村など五箇山地方は木炭の一大生産地であった。
 木炭を運んで来たトラックの荷が町並みの家の軒先に高く積まれ木炭屋さ
んの店々で賑わっていた。
 木炭の生産は平成7年の資料でさえ、北海道(5003トン)、岩手(6822トン)、
福島(1941トン)、和歌山(1733トン)、高知(1088トン)、宮崎(1549トン)で全
国で生産されており、木炭は工業原料、家庭用の燃料として根強い需要が有
った事がわかる。

 小学校6年生頃から高校生までの夏休みは子供のアルバイトとして炭の運
び出し(炭かつぎ)の仕事をこぞって行ったものである。
 小学生の小さな体で、炭1俵を担ぐのは大変な重労働で、確か1俵の重さ
は3.5kg位あったが、荷の形態は長方形で背中に食い込み重くて大変だった。
 山の炭焼き小屋から曲がりくねった山道を1日2〜3回往復した思い出が
ある。
 中学生から高校生になると炭3俵(約12〜13kg)を担いで山道を下
ったものだ。
 この時のバイト料は1俵20円位だったが、当時のバイト料としては高く
仲間と競争して回数を増やし賃稼ぎをしたものである。
 炭の粉で首周りが真黒になり汗と炭粉で最低のバイトだったが、仕事が終
ると庄川河岸で水浴びし、体を洗い、魚つりや岩の間に手を入れて素手でウ
ナギを捕えたり楽しい事も多々有り、バイトの疲れに一滴の清涼を与えてく
れたものである。

 山の炭焼き小屋は土で窯を築き、中に山から伐採して来た木材を“ビッシ
リ”と並べ立て窯の入口を小さな焚き口を残して塞ぎ、焚き口で薪を燃やし
て窯の温度を上げて木を乾燥させ、むし焼きにし、そのあとで窯全体に熱と
火がまわり、むし焼き状態になったところで、窯の入口の通風孔を閉じて中
の木炭を蒸し焼き状態(300〜400度くらいだと思う)で木を炭化させる。
 次の行程として更に温度を(500〜700度くらい)に上げ、再度通気孔
を閉じて窯全体を自然冷却させ、それから窯の入口を開けて中の完全に炭化
した材を炭として取り出して、一定の寸法に切り、俵詰めして出荷していた。
 子供等はなかなか窯の中に入らせてもらえなかったが、一度だけ入った様
子を今も鮮明に記憶している。

 窯の中の広さは畳10〜12枚位、高さは2〜2.5m位だった。(炭、6
0〜70俵とれる窯で)天井部分より少し奥に煙突の穴があった。
 窯の中の臭いは、所謂、炭の臭いや、木の焦げた臭いの他に、ツーンとす
る若干、酸っぱい臭いがした。
 今にして考えれば酸っぱい臭いは、木酢酸が副生しているからに他ならない。
 昔、木酢酸は重要な“酢”としての原料で精留し木酢酸として高価に取引
された時もある。

 炭には黒炭と白炭が有るが、小生等がバイトで取扱っていたのは黒炭で、
一方の白炭は所謂“備長炭”に代表される表面が白くて硬い炭である。
 白炭は焼く窯の構造が少し違う。即ち、窯は内部の周りを石で積み上げ天
井部分だけを土で作るもので、焼上げ工程は黒炭と途中までは同じだが、蒸
し焼き段階で黒炭より窯の温度を1000度以上の高温まで上昇させる。
 最後に空気を入れ焼き上げ温度を高温にする点が違う。そして冷却は炭の
粉(スバイと言っていた記憶がある)を窯の炭にかけて行う。
 スバイは別名、カンジヤ粉と言っていたが、当時鍛冶屋が使った炭の粉の
事ではないか?と思われる。

 小生の部落や周辺では備長炭は作られてなかったが、炭の厚木が硬ければ
長持ちして、良い炭とされるが硬い木材として、ナラ、ミズナラ、クリ等が
原材料として使用された。出来上がる炭の品質の種類も、上ナラ、中ナラ、
ミズナラ、クリとか、上雑、雑等に分れていて、荷札が付けられ青い印色で
記号が付けられていた。又、別の分類法として上ナラ○とか、上ナラ▽(ゲ)、
雑○、雑▽(ゲ)などの印が付けられている場合も有った。
 備長炭は本来、ウバメガシの木を使用するが、段々カシの木が少なくなり、
今日では代用として、カシの木が代用されている。
 原木料は炭焼き窯より上の雑木林から集材する。炭焼き作業の中の最大の
重労働は原木の運搬で生木で重く、手段は、人力そのものなのである。

 今では材料はチェンソーで、運搬は運搬作動機でなされ、作業効率に格別
の差がある。
 当時は全て人力だったからバイトで手伝った事が有るが、作業がきつく、
危険なのでバイト料が高く、この仕事を欲したかったが、高校生の兄ちゃん
達しか、手伝わせてもらえなかった。
 木を運ぶ作業はとても手間と人手が掛るものであった。
 窯に材木を立てて、詰め込んで、窯の前の焚き口で薪を燃やして火付を行う。
 窯の前に陣取って火入れ作業を真剣に見ていたものだ。

 火入れや燃焼法は今、考えてみると温度計も空気量を計る流量計も何も無
い中、全くの経験、勘と煙突からの煙の色、匂いを敏感に読み取り、窯の空
気量を小さな空気取入れ口で調節し、小さな穴から火の色の様子を観察して、
状態の進行を見守るのである。
 一番重要なのは、炭の窯出しに近い時の火力調節である。
 炭焼き名人は窯の焚き火口前に、ムシロを引き、酒を“チビチビ”飲みな
がら、火加減を見つつ調節して徹夜となるのである。
 経験と勘による、大ざっぱな火力コントロール作業をしながら、窯に材木
をいれてから約2週間で炭が焼き上がる。
 炭を窯から取り出すのであるが、温度は700〜800度、この中から出口へ掻
き出すのだが、熱くて汗は出るし、炭粉が舞い上がるし、最悪の環境下での
作業が続く。

 真赤になった炭は柄の長い掻き出し棒で取り出されるが確か、昔、田んぼ
の代掻きの時、平面に均すのに使用していた「エブリ」と呼ばれた柄の長い
均し棒に形が似ていた。
 熱いのでいい加減な作業をすると、炭が折れてしまうので手抜きは出来な
いのである。
 一焼きで60〜70俵量の産炭の片付けはたいへんで、バイトで手伝ったもの
だが、汗と炭粉で真黒になった。
 窯からだした炭は硬いので取扱い時、触れ合うとチン、チンと金属音がし、
出された炭は少し灰色がかった黒色で折れ口は生木が形を変えず、年輪を残
したまま“キュー”と均一に縮んだ様な、無駄な脂肪分を削ぎ落した筋肉の
様な、腐らずに残ったミラーの様な形容が正しい物だった。

 良い炭を焼く条件は、窯の木材を焼く燃焼科学そのものであり、窯全体の
管理が半分、燃焼条件決定の要である空気量のコントロールが半分、この2
つの大ざっぱな条件管理が炭の出来具合を決定するのである。
 炭は今日迄のエネルギー革命の変遷によって廃れ、今日では殆ど見られな
くなってしまった。
 一部の特殊な領域でのみの使用になってしまったが、それでもグルメブー
ムや自然志向等で、細々と生ながらえている。
 その為か、炭の値段は昔の値にスライド係数を乗してもなお、相当な高価
格で売れている。

 盛んだった炭焼きは今日、見る陰も痕跡も無い。ましてや、炭焼きに管理
されていた山林も又放置されたままとなっている。
 自然の木は自らに適した所を選んで生える。放置しては木々は勝手に成長
し雑な山になる。
 杉の山も松の山も絶えず人々が手を加え、資源として定められた人間の知
恵に従って使用される事で保たれて来てるのである。

 生活に使用される火力源は人間の生活変化と平行して多様化、開発が進み
木炭、石炭、石油、ガス、電気へと急速に変化した。
 しかし、地球上のエネルギーの大部分は無限ではない。
 有限であり続ける。私達が住む限りエネルギーは必要である。
 そう遠くない将来、人間が先ず最初に使い出したエネルギーの原点である
木(木炭)に回帰する時が来るのでは〜と考えてみるのである。

 (参考)
1. 炭焼きをしていた2人の長老に取材し、記憶を確認して要約した。
2. 炭焼き窯と炭焼き現場の見学(ドラム缶による、今風の炭焼法の見学)
3. 炭焼きした山林の現場調査、その他。
                                (完)

──────────────────────────────────
◆ねじばな便り
〜人事を尽くして天命を待つでないと〜          中川 正次
──────────────────────────────────
 高瀬神社に通ってまでの源田さんの原稿、興味深いものがありました。
 私が、有峰の宗教的なものについて頭に浮かぶものが二つあります。
 今回は、お祈りについてです。

 有峰に勤めていた頃、私が責任あるものとして怪我に至る事故が起こった
ことが2回あります。1回は、日帰り語り部講で細入村公民館の方が訪れて、
冷タ谷(つべただに)遊歩道で、年配者がすべってくるぶしを捻挫された事
故です。 南側遊歩道のカラマツの葉っぱが広がる傾斜の緩い坂でした。
 全治に2週間ほどかかったと思います。保険に入っていますからその保険
がおりました。もう1つは、休みの日に知り合いのご家族と一緒に西谷に
入り、3歳の男の子が頭に傷をしたことです。
 西谷いのちの沢の手前の沢(スタッフとは一の沢と呼んでいました)での
怪我で、父親がおんぶして一目散に林道まで降り車に乗り、救急車を呼んで
もらい富山市民病院に一晩泊まってお帰りでした。きっと頭に、はげが残っ
ていると思います。事故的にはこれが一番きつかったです。

 ひやりとしたことは4回あります。
 1つは、これまた西谷一の沢で、男性がひっくり返ったことがあります。
 帽子をかぶりリュックをしょっておられたので、なんともありませんでし
たが、私は肝を冷やしました。
 2つ目は、真川に下りるとき、がけを下りていたのですが、最後のところ
で、川にどぼんと中年の女性が流されてびしょぬれになった件。
 3つ目は、その真川のがけを秋にチェックにいったら、がけの中央で、ぐ
らぐらになった大きな石を見つけたとき。すぐに、大きなバールで川に落と
しました。
 4つ目は、私が公用車をがけから落とした件。がけ下に人がおられたら重
大な事故になり、私は首になっていたでしょう。車が破損しただけでした。
 当然、処分を受けました。
 なお、真川では、危険がわかったので少し上流まで行って、がけを下りる
ことなく川に入るようになりましたから安全度は段違いに高くなっています。

 こうしたことがあって、今では、公的・私的を問わず、有峰に行くときは、
心の底から、安全に心を配ります。
 毎日、仏壇にチーンしていますけれども、有峰に行くときは、近所のお宮
さんにも参ります。
 有峰についたらダム展望台でお祈りします。遊歩道を上がる前には、同行
する人全部で、手をつなぎ、人数を、「1、2、3・・・」と数えます。
 チベタンベルを持ち、「南無阿弥陀仏でも南無妙法蓮華経でもナマステで
もアーメンでもいいから、お祈りしましょう」と伝え、チベタンベルを1回
ならします。

 チベタンベルというのは、チベットの仏具で、茶たくの大きさの金属が、
一本の皮ひもでつながったものです。それをチーンとやるのです。
 遊歩道を下りてきたときも、手をつないで人数確認とチベタンベルです。
 帽子とリュックのない人を連れて行くのは心の底からいやです。
 帽子がない人には、私の帽子を貸すか、「死んでもしらんよ」といいます。
 帽子とリュックが怪我を軽くするのを知っているからです。

 西谷を入ったときの最初のところに、3本の丸太をワイヤでつないだ橋が
あります。年配の人がおられるときは、私が川に下りて、橋から落ちてこら
れた場合、だきとめるスタンバイをします。

 ウラジオから来られたロシアの人たちには肝を冷やしました。西谷いのち
の沢で、あの大きな石をぴょんぴょんと飛び回るのですから。シベリアでは
こんなの当たり前と言っておられました。

 家に帰れば、まっさきに、仏壇でチーンします。
「人事を尽くして天命を待つ」でないと、有峰に行く気がしません。

 源田さんが、有峰の恵みに感謝するとか、山開き・山じまいで感謝すると
書かれましたが、私にとっては、毎日が、安全祈願でした。また、県の有峰
森林文化村全体の上司の朝の仕事は、事務所の神棚に安全をお祈りすること
から始まります。

 というわけで、私にとっても有峰の神というのは、安全の神が90%です。

──────────────────────────────────
◆有峰森林文化村からお知らせ             有峰森林文化村
──────────────────────────────────
 ありみネットのトップページをリニューアルしました。
 お手数ですが、現在のブックマークやお気に入りに登録をされている場合
は、削除してこれをクリック http://www.arimine.net/ したトップページを
ブックマークやお気に入りに新たに登録して頂きますようお願いします。

──────────────────────────────────
◆編集局からのお願い                 有峰森林文化村
──────────────────────────────────
◇ホームページありみネット http://www.arimine.net/
◇文化サークル活動所/有峰デジタル画廊にどしどし 投稿をお待ちしており
ます。(デジタル写真でも絵画(写真に撮って)投稿ください。)
有峰森林文化村新聞は村民の交流の場として利用してください。
◇有峰森林文化村では皆様からいただいた情報やご意見、感想を掲載いたし
ますので、どしどし投稿をお待ちしております。

◇あて先
◇Eメール:info@arimine.net

──────────────────────────────────