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有峰村民の皆様と、ほぼ2週間に一度、双方向で交流するメールマガジン
有峰森林文化村新聞 2009年3月21日 第177号
編集/有峰森林文化村会議 編集長/荻沢明夫
(発行日現在の有峰村民人口:655人)
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━━目次━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
◆オレゴン有峰往復書簡第57回目 有峰からオレゴンへ 中川正次
  〜秀ちゃの分も生きる〜
◆土壌動物の話し(その10)「ダンゴムシ、ワラジムシの親戚 ニホンヒ
 メフナムシ」
  富山県立滑川高等学校 校長 平内好子
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◆オレゴン有峰往復書簡第57回目 有峰からオレゴンへ 中川正次
  〜秀ちゃの分も生きる
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滝田洋二郎監督の映画「おくりびと」がアカデミー賞を受賞しました。実
は滝田さんとは、福岡中学校で1年と3年で同じクラスでした。テニス部で
彼はキャプテンでした。中学校で彼を苗字で読む人はいなくて、みんな、
「洋二郎」と呼んでいたように思います。私が、「正次」だったように。
1学年180人くらい5クラスありました。3年間同じクラスだった人は私には
おらず、2年間同じだった人が、私の場合、滝田さんと一人の女の子だけ
でした。滝田さんも同じことですね。だから、相当の確率だと思います。
ひょうきんで、チョイ悪な感じもありました。親しまれていた人でした。
福岡の旧国道沿いの酒屋を営んでおられるお家に、2回ぐらい遊びに行っ
たような記憶があります。彼は街の中の小学校出身で、私は農村部の小学
校です。滝田さんの小学校(福岡小学校)は、街中といっても50人をちょ
っと切るくらいで2クラスしかありませんでしたから、同じ小学校の人た
ちにとっての喜びは、私以上のものだと思います。

オレゴンにおられる小杉さんは、「おくりびと」をご存じないかもしれな
いのでお話すると、納棺夫の話です。滝田さんがロスアンゼルスのアカデ
ミー賞授賞式に向かう前、日本のアカデミー賞を総なめ状態にあり、本場
のアカデミー賞もとれそうだと評判がたちはじめたころです。私は、兄の
夢を見ました。白い布を取ると、そこには兄秀一の顔がありました。

目が覚めて、「秀ちゃの分も生きよう」と思いました。

兄は、小学校2年生で死にました。1959年(昭和34年)、私が3歳11ケ月の
ことです。盲腸を手術して、肺炎を起こして死んだのです。記憶に残って
いるのは、自転車の後ろに乗せてもらって隣の集落まで行ったこと。肩車
してもらったこと。凧揚げしたこと。画用紙の下に10円玉をおいて、上か
ら色鉛筆でなぞって10円玉を描いたこと。葬式で、私と父が白い服を着て
いたこと。墓場に火葬場があったのでそこへ運んでいって燃やしたこと。
両親の嘆きはいうまでもないことでしたが、私自身、悲しかったという感
情の記憶はありません。兄の声も思い出せません。

大きくなって進路を考える時、両親の面倒をみなければという責任感は当
然起こるわけで、そんなとき、「秀ちゃがおったらなあ」という気持ちも
同時に起こったものでした。

今回の「秀ちゃの分も生きよう」は、それとは違います。平和や環境のた
めに兄の分も生きようという気持ちです。夢が覚めたとき、その場で思っ
たわけですが、日がたつにつれて、後付けで理由がくっついてきました。

兄が死んだ1959年は、日本が大きな分岐点を迎えつつある年だと思います。
翌年、1960年は安保闘争があり、岸内閣が倒れて所得倍増論の池田内閣に
替わります。ダグラス・スミス著「経済成長がなければ私たちは豊かにな
れないのだろうか」の4ページにこうあります。

所得倍増論は政府によって1960年に提案されたが、それはもう一つの、も
っと奥行きのある豊かさを目指していた社会運動思想の代替物として、つ
まりその運動をつぶすための武器として提案されたということを忘れては
ならない。60年安保闘争が目指した豊かさには、経済的豊かさだけではな
く、平和、民主主義(仕事場での民主主義も)、社会的平等、正義などが
含まれていた。所得倍増論、つまり、社会の豊かさはGNPによって計ら
れるものだという、貧弱な豊かさを求める論理は、当時の民衆闘争に対す
る政府の答えだった。

兄が死んだ1959年には、皇太子のご成婚がありました。プロ野球の天覧試
合がありました。そして、有峰ダムは湛水を開始しました。私の家が新築
されたのは2年後で、その後、テレビが家にやってきました。大工をして
いた父は、今から思えば、建築ラッシュの恩恵に浴していたと思われます。

小学校2年で死んだ兄が生きていたらどんな人生を送っていたかわかりま
せん。しかし、日本が経済成長主義に舵を切ったことが本当によかったの
かと考え、兄の分も平和や環境のためにがんばろうと思います。年8%の
経済成長をしないとと、国がもたないと中国政府が言っています。経済成
長主義は、アメリカも中国もロシアも同じ。仮に今回の世界同時不況が乗
り切れたとしても、しばらくするともっと大きな混乱、戦争が起こるので
はないでしょうか。

経済成長主義に限界があるのは、それを続けていたら地球がもたないこと、
戦争とセットになりがちであることなどを挙げることができると思います。
私たちに、もはやフロンティアは残されていないのか。残されていると思
います。海でも、宇宙でもありません。それは、私たちの脳ではないかと
思います。アイデアがもやもやとしているので、本も読んで、すっきりと
整理させてから書きたいと思います。

兄の頃の葬式は、家で行い、お棺を火葬場に運び燃やすものでした。今は、
お寺や自宅でお通夜・葬式があることはめったになくほとんどセレモニー
ホールです。わずかに、納棺が自宅で行われるだけ。父の葬式のときは、
納棺の時にどっと涙がでました。そして、寒気がして怖かった。しかし、
それが済んでしまうと、お通夜や葬式の段取りで忙しくて悲しんでいる場
合でなくなりました。あっという間に、七日の法要まで走ってしまいまし
た。納棺夫に着目した本木雅弘さんや滝田さんに感心します。「おくりび
と」がこれほど評判にならなければ、また監督が滝田さんでなければ、兄
の夢もみなかったろうと思います。感謝しています。

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◆土壌動物の話し(その10)「ダンゴムシ、ワラジムシの親戚 ニホンヒ
 メフナムシ」
  富山県立滑川高等学校 校長 平内好子
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ダンゴムシは皆さんよく知っておられますね。家の庭先や道ばたでよく見
かけるのはオカダンゴムシ、指でつまんでちょっと丸め、広がったらまた
丸め・・・ナンテ遊んだ経験のある人も多いでしょう。そのダンゴムシの
仲間とよく似ているのに丸まらないのがワラジムシの仲間です。

有峰のブナやミズナラの林の中で落ち葉をそっとめくってみると、ダンゴ
ムシやワラジムシにとてもよく似たムシを見かけますが、その逃げ足の速
いこと。体長は5〜7mm、ダンゴムシやワラジムシよりややスマートで、つ
やつやと光沢のある暗褐色の鎧カブトをまとったような感じです。
フナムシの仲間でニホンヒメフナムシという種です。

ダンゴムシやワラジムシと違ってとても敏捷なので、なかなか捕まえれな
いかもしれません。よく見れば、ピンと長く伸びた1対の尾肢の様子がワ
ラジムシと違うことなどもわかるでしょう。
ダンゴムシよりずっと乾燥に弱いので、落ち葉の下や朽ち木の中など湿り
気の多いところを好み、落ち葉や枯れ木などの腐りかけたものを食べてい
ます。

有峰に限らず、海岸からかなり内陸の山地まで広範囲に分布し、林の落葉
下に多く生息しています。近くの林で探してみてください。

ダンゴムシやワラジムシ、ヒメフナムシなどのグループをワラジムシ目
(等脚目)と言いますが、このグループの分類の第一人者が富山県にいら
っしゃいます。富山科学博物館の布村昇館長です。彼は、このグループの
新種を次々と記載し続けているスゴイ人です。

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